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橋本善太さんを語る |
■善太さん (橋本善太さんの逝去に際して寄せられた故葛西道之氏の追悼文)
紫波町の人々はだれも橋本先生とも、橋本さんとも呼ばないで、ただ善太さんと呼ぶ。それは代々伝わった世襲の名でもあり、また屋号ともなっていたものであるが、ここで私が善太さんと呼ぶのは、先日亡くなられた鶏と蚕の橋本善太氏のことである。
当時、善太さんは日詰小学校父兄会の幹部でもされていたのであろうか、時々学校にお見えになることがあった。机に向かって子供の綴り方を添削したり明日の教材を研究したりしている所に、ひょっこりドアをあけて職員室に入って来た善太さんは椅子に腰かけるやいなや『先生方、鉄道の両側の石垣の所々さ小さな穴があいているのを知っているスカ?あの穴がないと地下水に圧力で石垣も土手も崩れるノス。先生方も息ぬきしないと、大きく崩れてしまいアンスヨ』と言った調子で話しかけられる。
別段その位熱心に根をつめて働いていたわけではないが、そういわれるとわれわれ若い教師どもは席を立って善太さんのまわりに集まってお話を聞くことになるのであった。
私は善太さんの改まった講演をきいたことがないので、その上手、下手は知らないが他人(ひと)の話ではあまり上手な方ではなかったらしい。しかし座談になると、善太さんの人柄がにじみ出て、何ともいわれないなごやかなふん囲気がかもしだされて、われわれは魅せられたように、その話にひきずりこまれたものでした。
善太さんがまだ健康であられたころは、よく北上川で打ち釣りをしているのを朝夕の通勤の往き来に見たものである。河原に下り立ち、善太さんの振る一竿(さお)ごとにハヤが釣りあげられて、河原の小石の上に銀鱗(りん)をおどらせる名人芸に感嘆(たん)の声をあげると『なあに大したことはないノス。とにかく私が打ち釣りをはじめると、北上川のヘァザッコが石巻までズラッと並ぶノス。あとは改札口で切符を切るように、それを一匹ずつ釣りあげるだけス』と竿を振る手を休めずに言い放つのであった。釣りあげた獲物が、お宅の食膳(ぜん)に上がったのか、または鶏の餌(えさ)にされたのかは私は知らない。
三百六十五卵の世界記録をつくったころのことです。
『それは私だけの手柄ではないノス。全国の養鶏家の競争と激励があってはじめて生まれたものス。たとえばこの世界記録は電柱みたいなもので、両方から電線にひっぱってもらって、やっと立っているようなものナノス』と語られた善太さんの敬けんな態度には頭の下がる思いをしたものである。
そのころのある日、善太さんの養鶏場を見学に訪れたことがある。善太さんは早速案内に立ってくれたが、びっくりしたことは、数百羽も運動場の放している白色レグホンの中に立って一羽一羽を指さしてその(番号)を言われたが、善太さんの言う鶏つかまえて、足首のアルミの足輪の番号を見ると、一羽の間違いもなかったことである。私の目からは皆同じ色と形をした白色レグホンで少しの区別もつかなかったが、善太さんはその一羽一羽に深い愛情をもって観察されていたのであろう。一羽一羽が皆違う鶏として見分けられたのである。これでこそ世界記録が生まれたのも無理ではないと感激してそのことを言うと、『先生だって、受持ちの生徒の名前はしっているベスか。それと同じス。名前ばかりでなく、その生徒の性質も家庭もよく知らないとよい先生になれないんでしょう』と、まるで、当然の事のように言われたが、今なおその言葉が私の胸の中に生きていて、機会あるごとに私を導いてきた事はまったく有難いことである。 |
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